【この記事のポイント(Insights)】
米国不動産投資を検討したことがある方なら、「アメリカでは買主側の仲介手数料は無料です」という説明を一度は聞いたことがあるかもしれません。
実際、長年の米国住宅市場では、売主が支払う仲介手数料の中から買主エージェントの報酬も支払われる仕組みが一般的でした。そのため買主は、自分の代理人であるエージェントを無料で利用できるように見えていたのです。
しかしこの常識が見直されつつあります。契機は2024年、全米リアルター協会(NAR)が関係する反トラスト訴訟の和解によって、買主エージェント報酬の取り扱いが大きく変更されたこと。本記事では、この制度変更の背景と実際に何が変わったのか、そして日本人投資家が理解しておくべきポイントを整理します。
まず従来の仕組みを確認しておきましょう。米国では一般的に、住宅を売却する売主が仲介会社と契約を結び、仲介手数料を支払います。
その手数料は売主側エージェントだけでなく、買主側エージェントにも分配されるのが一般的でした。例えば100万ドルの住宅を売却する場合、総額5〜6%程度の仲介手数料が設定され、その一部が買主側エージェントへ支払われます。
買主はエージェントから、物件紹介、内覧手配、価格交渉、契約支援といったサービスを受けますが、決済時に自ら報酬を支払う場面はほとんどありません。このため、「買主エージェントは無料」という認識が広く浸透していました。
しかし実際には無料だったわけではありません。表向きの費用は売主が負担していましたが、そのコストの分、住宅価格を高く設定することは可能です。その場合、実質的な負担者は買主です。見えにくいだけで、実際には負担が生じていたかもしれないのです。
実際、NARの2023年調査(Profile of Home Buyers and Sellers)では、「自分がエージェント報酬を負担した」と回答した売主は約4分の3(約75%)に留まりました。つまり、制度上は買主負担や分担も可能であり、実際にそうした取引も存在していたことが分かります。
この慣行に異議を唱えたのが、近年相次いだ反トラスト訴訟でした。
代表的なのが2019年に提起されたSitzer/Burnett訴訟です。原告側は、「売主が買主エージェント報酬まで負担することを事実上強制する業界ルールが存在し、その結果として仲介手数料が高止まりしている」と主張しました。
争点となったのはMLS(Multiple Listing Service)と呼ばれる不動産業者向けデータベースです。従来、多くのMLSでは物件掲載時に買主側エージェントへの報酬額を表示していました。
原告側は、MLS利用のためには買主側報酬の提示が必要だが、売主と直接接触しない買主側エージェントの手数料には競争が起きにくい構造になっており、売主が余計なコストを負担していると主張したのです。
2023年10月、ミズーリ州の陪審は原告側の主張を支持し、NARなどに対して17.8億ドルの賠償評決を下しました。この評決を受けて、NARは2024年3月に包括的な和解案を発表します。
2024年3月15日に発表された和解案は、同年11月26日に裁判所の最終承認を受けました。NARは約4年間で4億1800万ドルを支払う一方、業界ルールの大幅な見直しを受け入れました。
特に重要なのは次の3点です。
MLSで買主エージェント報酬を表示できなくなった
最も大きな変更がこれです。2024年8月17日以降、MLS上で買主エージェントへの報酬を提示することが禁止されました。各地のMLS事業者もこれに対応し、報酬入力欄を削除しています。
従来はMLSを見るだけで、「この物件は買主側に2.5%」 「こちらは3%」といった情報が分かりました。現在はそうした表示はできません。
買主との書面契約が義務化された
もう一つの大きな変化が買主代理契約です。新ルールでは、エージェントが買主に住宅を案内する前に、報酬条件を明記した書面契約が必要になりました。
契約には、報酬率、固定報酬額、報酬計算方法などを記載する必要があります。従来は曖昧になりがちだった報酬条件が、取引開始前に可視化されるようになったのです。
「無料」と表現しにくくなった
和解文書では、報酬を受け取る予定があるにもかかわらず「free」「no cost」といった表現を用いることを制限しています。
つまり制度上も、「買主エージェントは無料」という説明は難しくなりました。実際には誰かが報酬を支払う以上、「無料」という表現は誤解を招くという考え方です。
この制度変更について、日本でもしばしば誤解が見られます。
誤解① 買主が必ず払うようになった
これは正確ではありません。和解によって禁止されたのはMLS上での報酬提示です。
売主が買主エージェント報酬を負担すること自体は禁止されていません。現在も売主が費用を負担する取引は数多く存在します。Redfinの集計でも、ルール変更後も大半の売主が引き続き買主エージェント報酬を支払っていると報告されています。
これは競争の激しい市場では、買主の実質的な負担を軽減することで集客効果が期待できるためです。そのため、制度変更後も多くの売主が自主的に報酬負担を続けています。
誤解② 買主エージェント制度がなくなる
これも誤りです。実際には、買主エージェントの役割そのものは維持されています。むしろ今後は、交渉力、地域知識、契約支援能力といった価値がより明確に問われるようになるでしょう。
誤解③ 手数料は大幅に下がった
これも現時点では確認されていません。そもそも買主エージェント手数料率は、和解以前から数年来、緩やかに低下し続けてきた経緯があります。和解はその長期トレンドの延長線上にあるものの、和解を境に急落したという事実は確認されていません。
Redfinの集計によれば、買主エージェント手数料は2024年第3四半期(ルール施行時)に2.36%まで低下したものの、その後はむしろ反転して上昇し、2025年第2四半期には和解前と同じ2.43%の水準まで戻りました。
米国の買主エージェント平均手数料率(Redfin、全国平均)
| 四半期 | 平均手数料率 | 備考 |
| 2024 Q1 | 2.43% | 和解発表 |
| 2024 Q3 | 2.36% | ルール施行(底値) |
| 2024 Q4 | 2.37% | |
| 2025 Q1 | 2.40% | |
| 2025 Q2 | 2.43% | 和解前の水準まで回復 |
| 2025 Q3 | 2.42% |
Redfin公表データに基づく推移。NAR和解後、一時的に低下したものの、その後は和解前の水準まで戻っており、大幅な低下は確認されていない。
米連邦準備制度理事会(FRB)の研究(2025年5月公表)でも、買主代理契約の義務化が手数料率を大きく押し下げた証拠は確認できていません。ただしこの研究が分析したのは、和解以前から一部の州で導入されていた「買主代理契約の義務化」の効果です。和解で新たに加わった「MLS上での報酬提示の禁止」は分析対象に含まれておらず、その長期的な影響については今後さらに検証が必要だと研究者自身が指摘しています。
NAR和解を一言で表現するなら、「買主エージェントが有料になった」のではなく、「もともと存在していたコストが見えるようになった」という変化です。
長年の米国不動産市場では、買主エージェントの報酬は売主負担として処理されることが一般的でした。その結果、買主からは無料に見えていました。
しかし2024年以降、その費用は契約と交渉の対象として明示されるようになりました。「買主エージェントは無料」という説明を見かけたら、その情報が2024年以前の常識に基づいていないか、一度確認してみる必要があるでしょう。
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