未完の轍|文藝春秋×オープンハウスグループ 特別企画

未完の轍|文藝春秋×オープンハウスグループ 特別企画

作成者: Open House|2026.10.05

(右)北海道ワイン株式会社代表取締役社長 嶌村公宏氏、(左)同経営企画室課長 嶌村昌紘氏

北海道のブドウ農家とともに、道産のブドウで道産ワインをつくる。創業以来、その想いをひとすじに貫き、今や日本ワインの一大メーカーとなった北海道ワイン株式会社。どこまでも広がる直轄ワイナリーのブドウ畑はこの秋も豊かな実りを迎え、未来へと向かってその枝をどこまでも伸ばしている。

 豊かに実をつけたブドウの木々が、さえぎるもののない北海道の大空へ向かうかのごとく、山裾の斜面に整然と続いていく。その総面積はなんと約447ヘクタール。創業から50年以上にわたり、北海道産のブドウで「日本ワイン」をつくり続けてきた北海道ワイン株式会社の直轄農場、鶴沼ワイナリーに広がる壮大な光景だ。

 日本ワインとは国産ブドウのみを原料として日本国内で製造された果実酒を指す。今や日本ワインの最大生産量を誇る北海道ワインだが、創業者嶌村彰禧(あきよし)が北海道でのワインづくりを志した1970年代の日本では、輸入原料であっても国内で加工・瓶詰めすれば「国産ワイン」として扱われていた。

「『国産のブドウを使わずに国産ワインと言えるのか』と疑問を抱いた父は、同時に後継者不足で離農が進む北海道の現実を知り、なんとかしなければと義憤に近い思いに駆られたようです。そこから常識では不可能と考えられていた豪雪地帯でのブドウづくりという無謀な挑戦が始まりました」

 そう語るのは、彰禧の長男にして現在の代表取締役社長である公宏だ。息子から見ても父・彰禧の仕事ぶりは“無謀”と感じるほどチャレンジングでエネルギッシュだった。

 山梨県のブドウ農家の次男として生まれ育った彰禧は、戦後、父の仕事を手伝う中から縁故を得た北海道に移り住み、20代にして紳士服の生地を販売する事業を興す。40代半ばでオーダーメイドの紳士服製造会社を立ち上げるが、そのきっかけの一つが、レーザー光線を使って高速で生地を裁断する機械が開発されたというニュースを新聞で目にしたことだったという。その常識破りな行動力を示すエピソードとして、公宏はこう明かす。

「父は本当に行動力がある人間だったので、アメリカの宇宙機器メーカーであるヒューズエアクラフトという会社にレーザーのカッティングマシンがあると知り、すぐさま渡米してそれを2台買い付けてきたんです。日本ではレーザーなんてまだまだ知られていない時代でしたので、やっぱりアイデアマンだったんだなぁと思いますね」

 彰禧の無謀な挑戦はそれだけにとどまらなかった。じつは並行して浦臼町鶴沼に11ヘクタールもの耕作放棄地を入手し、自家栽培ブドウによるワインづくりに乗り出していたのだ。

日本最大の垣根式ブドウ畑が広がる鶴沼ワイナリー。「冬になると2mも雪が積もり、実が熟す頃には鳥やウサギ、さらにはクマなどの獣害もあって心配は絶えません。毎日ブドウと対話しながら大切に育てています」と齋藤浩司農場長。

苦心の末に編み出した“雪の下”の独自栽培方法

 カッティングマシンの件での訪米後、彰禧は西ドイツ(当時)へも視察目的で渡航した。その際に足を運んだのが現在のヴァインスベルク州立ブドウ栽培・果樹栽培教育研究所(LVWO)だ。そこで彰禧の頭にひらめいたのが、ヨーロッパの北限産地であるドイツの品種ならば、北海道でもワイン用ブドウを栽培できるのではないかという考えだった。

「いや、これもやっぱり無謀ですよ。小樽や鶴沼のような豪雪地帯でワイン用のブドウが育てられるとは誰も思っていませんでしたから、地元の人たちからはかなり反対されたようです」

 当時まだ子どもだった息子公宏はそう苦笑するが、彰禧の決意は固く、1974(昭和49)年、小樽に北海道ワインを設立。鶴沼の畑を拡大し、ヨーロッパでも冷涼なドイツやオーストリアから40品種以上、6,000本ものブドウの苗木を輸入して試験栽培を開始した。しかし、本場ドイツに倣った仕立て方を取り入れたものの、鶴沼の2メートルを超える雪の重みは想定を遥かに超え、冬を迎えるたびに苗木は傷つき、折れてしまった。さらに、残ったわずかな苗木も野生のウサギなどによる食害に晒され、枯死と植え替えを繰り返す試練の連続だった。

「ようやく編み出したのが、苗木を斜めに植えて垣根に添わせ、冬期は雪の下に寝かせるという独自の栽培方法です。雪の下は外気より暖かいのでブドウも越冬できるんです。雪解けとともに人の手で起こし、ワイヤーに結びつけて成長を促す必要があるので大変な手間がかかりますが、この方法によってようやく畑が安定するようになりました」

 しかし、ブドウは植え付けてから3年は根の成長を優先して実を落とさなければならない。その間、彰禧は並行してワインの醸造を学ばせるため社員2名をドイツに派遣。また、ドイツから優秀なワイン醸造マイスターを招聘して技術指導を受け、本格的なワインづくりの体制を整えていく。ようやく最初のワイン用ブドウ、ミュラー・トゥルガウが実を結び、北海道ワインが市販第1号ワインを世に送り出したのは、1980(昭和55)年のことだった。

2m近くも積もる雪の重みに耐えられるよう、苗木を斜めに植えて冬の間は雪の下に寝かせる。春になるとそれを人の手で起こしてワイヤーに繫ぎ、成長を促すという独自の栽培方法で、豪雪の地でのブドウ栽培を成功させた。

ブドウの質を決して損なうな。胸に刻んだマイスターの教え

 一方、大学卒業後東京の金融系企業に勤務していた公宏は、「実家に帰った時に決算書を見てヤバい!と思い(笑)」、退職して北海道ワインで働くことを決意。1988(昭和63)年、すぐにドイツに渡って2年間ワインづくりを学んだ後、帰国して主に資金調達など経営面で父を支える役割に就いた。

「ワインのこともドイツ語もまるで分からない状態でしたが、行ってみると言葉ができなくてもなんとか働けるもんですね(笑)。ワインづくり自体も本当に面白かったし、向こうで飲んだワインが当時の日本のワインと格段に違って美味しかったんですよ。ゼロからのスタートでしたが、行ったからにはもう責任を持って自社のワインづくりを担わなければと思っていましたので、むしろ日本ではなくドイツでちゃんとしたつくり方を学ぶことができたのは良かったと思っています」

 公宏は修業中、マイスターから「本当に良いブドウをつくり、そのクオリティをいかにマイナスにすることなく瓶詰めまで持っていくかがワイナリーの仕事だ。それだけを考えろ」と繰り返し説かれたという。「言われたとおりそれだけしか覚えていません」と公宏は笑うが、それは「ブドウあってのワイン、農家あってのワイナリー」という父彰禧の信念に通じるものだった。

「父にとってはブドウ農家さんの生活を守ること、そして北海道のブドウ農業を持続させることが何よりの使命でしたので、耕作放棄地を手に入れてブドウ畑に変えたり、離農する農家の畑を買い取ったりと、借り入れをしてでも畑に資金を費やしていました。でも当時の銀行は、ワインの醸造所がどうしてそこまで畑にお金をかけるのか理解ができないし、父も理論立てて説明したりできない。父の想いを通訳してなんとか資金繰りをするのが、帰国後の私の仕事でしたね」

嶌村公宏・しまむらきみひろ
1962年、北海道小樽市出身。1985年、小樽商科大学卒。金融系企業に勤務後、88年に北海道ワイン株式会社に入社。旧西ドイツのワイン醸造組合に出向後、企画部長、副社長などを経て、2012年代表取締役社長就任。日本ワイナリー協会理事、北海道ワイナリー協会副会長などを歴任。

生食用ブドウを使ったフルーティーなワインが苦境を救ってくれた

 ドイツから帰国した公宏を待っていたのはもちろん資金繰りだけではなかった。一刻も早く良いワインをつくって収益を得たい状況にもかかわらず、ワイナリーから収穫するブドウの質が上がらないという厳しい現実だった。

 当時の彰禧たちは少しでも収穫量を増やすべく畑の拡大と苗木の植え付けに追われていた。しかし、1本の樹が蓄えられる養分には上限がある。欲張って実を成らせすぎれば一房ごとの味わいが薄まり、当然ブドウの質は落ちてしまう。

「規模は小さくてもいいから、ある程度本数を絞って1本1本手をかけないと質は良くなりません。けれど、当時の北海道の気候はブドウづくりには冷涼すぎて、山梨と比べると1ヘクタールあたりのブドウの収穫量が半分以下だったんですよ。父は『日本で収穫されたブドウを使わないワインづくりは邪道だ、それを正さなければならない』という想いが何より強かったので、どうしても畑を広げて収穫量を増やしたかったんでしょうね」

 そんな苦境の中にひと筋の光が射す。きっかけは地元の農家から寄せられた相談だった。販売用の果物としての出荷規格から外れてしまったナイヤガラを「なんとか使ってくれないか」と持ちかけられたのだ。

 昔から食べ親しんできたブドウの芳醇な香りと親しみやすい味わいをそのまま生かして試しに醸造したところ、これが思いがけないほどの大ヒットとなる。ワインに馴染みの薄かった層を含め、多くの消費者の心にその素直な果実味がまっすぐに響いたのだった。

 80年代後半に生まれたこのヒットは地元に留まらず全国へと広がり、北海道ワインの経営を一気に上向きへと転じさせた。そして「今でも一番の売り上げです」と公宏が顔をほころばせるほどの人気商品となったのだった。

生食用品種「ナイヤガラ」を使ったワインなど数々の人気商品が並ぶ本社のショップ。本社には特別テイスティングルーム「Keller3(ケラー・ドライ)」も設けられている。

ワインは農作物。農家の暮らしを最優先した父の想い

 生食用のブドウを使ったワインで増収を図れた北海道ワインだが、決して経営がラクになったわけではなく、売れないワインが倉庫に積み重なることもしばしばだった。それでも彰禧がブドウ栽培にかける熱意とブドウ農家を大切にする想いは変わることがなかったと公宏は振り返る。

「父は生まれがブドウ農家だったということもあって、ワインの在庫がたくさんあるのに、『これだけ買って』と頼まれると、断ることもなくその提示された量のブドウを全部買っちゃうんですよ。その気持ちは分かるんです。ワインにすれば熟成という時間稼ぎができますが、ブドウのままだと腐って捨てなきゃならない。そうすると農家さんの1年間の労働が全くの無になってしまいますから」

 そんな彰禧の信念が如実に表れたエピソードがある。1990年代後半、日本ではブドウに含まれるポリフェノールの効能効果が着目され、爆発的な赤ワインブームが到来した。大手ワインメーカーはこれを好機と増産に走り、国産のブドウが飛ぶように売れたのだが、2000年前後にはがらりと潮目が変わりブームが下火に。ブドウの引き取り手を失い、ハシゴを外されて途方にくれた農家が駆け込んだのが、北海道ワインだった。

「もう日本中の農家さんが売りに来て、とても引き取れる量ではないにもかかわらず、そのブドウを父はどんどん買っちゃうんです。今我が社が使っているブドウの量が毎年2000トン前後なのですが、その年買ったのはその倍近い約3700トン。中古のタンクをかき集め、そのタンクも置く場所がなくなったので冷蔵倉庫を借りてそこに預け、年明け1月の下旬ぐらいまでずっとブドウを絞っていました」

 結局この年に仕込んだワインを完売するまでに3年以上かかり、「農家が潰れる前にお前のところが潰れるぞ」と金融機関にも叱られたと公宏は笑う。だが、このことがきっかけで契約農家との信頼関係が深まり、「良いブドウをつくって北海道ワインと取引がしたい」と申し出てくれる新たな農家も増えることとなった。「ワインは農作物。生産者とメーカーは二人三脚でなければならない」と口癖のように言い続けていた彰禧の想いが、まさに大きな実りを結んだのだった。

巨大なタンクが所狭しと並ぶ本社醸造所。収穫のシーズンを迎えると次々にブドウが運び込まれ、非加熱醸造の「生ワイン」へと姿を変えていく。

北海道の課題解決のため、日々繰り返す新たな挑戦

 2018年、国税庁は「国産ブドウのみを原料とし、日本国内で製造された果実酒」を「日本ワイン」と定義する新たな表示基準を施行した。この定義を誰よりも先に、誰よりも強く求めていた彰禧は、悲願の達成を見届けて翌年この世を去った。公宏がしっかりとバトンを受け継いだ北海道ワインは今や日本で最も多く日本ワインを生産する醸造所となり、鶴沼ワイナリーの他に能登ヴィンヤード、後志ヴィンヤードを備えてブドウ生産地を拡大している。

 200を超える契約農家の中には、国内外の品評会で最高賞や金賞を連続受賞している北島農園などのように優れたブドウを生産する農家が増え、その質を少しも損なうことなくワインとして醸造する技術者も確実に育った。

 しかし、安心できることなど一つもないと公宏は言う。大きな課題の一つが、高齢化と後継者不足から廃業が進む北海道の農業の現状だ。北海道ワインではその解決策として、北海道大学や民間企業とともにスマート農業のシステム開発に取り組んでいる。

「無人の草刈り機や防除の機械などの開発に携わり、鶴沼ワイナリーで実証実験を繰り返しています。農家さんたちは真夏の暑い中でも防除用のカッパを着て農薬散布をしたり、炎天下で草刈りをしたりと、もう生死に関わるような作業になってきていますので、スマート農業で無人化を急がなければいけないと思っています」

 世界中を脅かしている気候の温暖化もまた大きな課題だ。かつて本州に比べ冷涼すぎてブドウの栽培は厳しいと思われた北海道だが、平均気温が上昇し続ける日本では今や北海道こそブドウ栽培の最適地とされるようになっており、実際、フランスの代表的なブドウ品種であるピノ・ノワールの生産地候補として考えているフランスのワイナリーが出てきたほどだという。

 そんな中で注目されているのが、カビに強く、うどんこ病やべと病などブドウの病気に対する抵抗性を自ら持つ交配品種「PIWI(ピーヴィー)品種」(真菌耐性ブドウ品種)だ。北海道ワインでは1999年からこのPIWI品種に取り組み、鶴沼ワイナリーでの栽培を進めている。

「現在のところ国内で最も多くPIWI品種を栽培しているのは鶴沼ワイナリーです。PIWI品種は、栽培と研究が進むドイツでは農薬の使用量を80%減らせるともいわれており、自然環境を守るためにも重要な品種なのですが、小規模なワイナリーではなかなか挑戦しにくい部分もあると思います。まずはうちが成功すれば、後に続くワイナリーも増え、北海道を世界に知られるPIWI品種の産地にできるのではと願っています」

PIWI品種「レゲント」「ロンド」などを使用したワインや、国際的なアワードを受賞している北島農園産ケルナーなど、多彩なラインナップを誇る北海道ワイン。フランスの最高峰規定に準じて手掛ける、本格派の瓶内二次発酵スパークリングワインも人気だ。

1本の道に縛られず、ブドウの可能性を広げる新たな道を探す

 北海道ワインが進めるユニークな取り組みの一つが、果汁を搾ったあとのブドウの残渣を使った製品開発だ。ブドウの皮などには抗酸化作用が強いとされるポリフェノールが多く含まれることから、機能性食品やサプリなどに活用できるのではないかと考え、研究開発を進めているという。すでにパウダー化が実現しており、2025年には大手菓子メーカーがナイヤガラの果皮パウダーを人気商品に採用して話題となった。これも、「ブドウの搾りかすを商品化できれば農家さんの収入につながり、後を継ぐ人も増えるかもしれない」という公宏の想いから生まれたアイデアだ。

 さらに、道内でワインづくりに携わる人々を対象とした研修講座の運営にも、北海道庁や北海道大学と連携して参画している。北海道庁が2015年にスタートさせた「北海道ワイン塾」を前身に、翌2016年からは「北海道ワインアカデミー」へと発展。北海道ワインも講義や実習の場を提供するなど全面的に協力し、地域全体の技術向上を支えている。大学卒業後に勤めていた金融機関を退職し、今年北海道ワインに入社した公宏の長男・昌紘は、前職のスキルを生かしてマーケティングや金融機関との連携、社内業務全般を精力的にこなす傍ら、ワインアカデミーの事務局にも席を置き、改めてワインの知見を深めている。

「2026年春の時点で北海道のワイナリーは76カ所となりました。これだけの数のワイナリーが道内で少ないパイの取り合いをしていても先はない。それぞれが切磋琢磨してワインの質を高め、『北海道のワインはおいしい』と道外や国外からの旅行客がワイナリーツアーをしてくれるようになれば、私たちワイナリーはもちろんブドウ農家の未来へも繫がっていくはずです」

 そう語る父の隣で昌紘も深く頷く。全ての取り組みは北海道のブドウ農家とワイナリー、ひいては北海道の未来のため。「いやいや、それが将来的には私たちにも返ってきますから」と冗談めかすが、公宏の言葉からは“無私”とも言えるほどの利他の心を感じる。

 守るべきは過去でも現在でもなく、未来。最後に公宏はさりげない口調でこう語った。

「もし従来通りのワインづくりという1本の道しかなかったら、私たちもブドウ農家さんも他の場所に進むことができなくなる。それでは万が一ワインづくりが立ち行かなくなった時に、農家さんたちの生活を守ることができません。過去の轍に縛られることなく、ブドウの可能性を様々な領域へ広げられるよう、アンテナをしっかり立てて、常に新たな道を模索していきたいと考えています」