糸と糸を撚り合わせ、強度や特性を高める“撚糸”。日本では数少なくなった撚糸企業の中で、独自技術や自社ブランドの開発などで下請け構造からの脱却を図り、業績を伸ばしてきたのが浅野撚糸株式会社だ。幾度も倒産の危機に瀕しながら、不屈の闘志で乗り越えてきた浅野撚糸の「大義」とは。
一般的なタオルとは格別な吸水性と使い心地から〝魔法のタオル〟と呼ばれ、一度のテレビ通販で1億円という驚異的な売り上げを記録した「エアーかおる」。地の底から自社を救ってくれた奇跡の一枚を手に、「ロゴマークは妻の顔なんです」と、浅野撚糸代表取締役社長、浅野雅己は微笑んだ。 撚糸とは糸に撚りをかけて強度や特性を高めることをいう。「腕によりをかける」とはここから生まれた言葉だ。のどかな田園地帯の岐阜県安八町に本社を置く浅野撚糸は、浅野の父、博が1969(昭和44)年に創業。長良川水害やプラザ合意といった幾多の試練に耐えながら、紡績会社や商社の下請けとして生き抜いてきた。
「極貧の農家に生まれた父は、稲わらを買い集めて縄をなう仕事から始め、やがて製縄機を買い入れて商売を大きくしたそうです。ビニール紐が出回るようになってわら縄が売れなくなると、取引先の紡績会社からの勧めもあって1967(昭和42)年に撚糸へと転換しました。最初は手工業で細々とやっていたようですが、次第に他の紡績会社との取引も増え、2年後に株式会社を設立しました」
岐阜県安八町の浅野撚糸本社工場。周囲にはのどかな田園風景が広がる。
浅野が生まれたのは1960(昭和35)年。小学生の頃には家のクルマが高級車になったり父がゴルフを始めたりと、子ども心に会社が右肩上がりであるのを感じていたが、「それでも父は『この業界に先はない』と常々言っていました」と浅野は言う。
「1972(昭和47)年の日米繊維協定で繊維製品のアメリカへの輸出が規制され、その後の二度のオイルショック、そして1985(昭和60)年にはプラザ合意と、父が言うとおり70年代以降の繊維業界は苦難続きでした」
父の言葉を受け、「であれば自分の夢を叶えよう」と浅野は福島大学教育学部に進学し、体育教師の道へと進む。しかし、数年を経た1987(昭和62)年、母が体調を崩したことを機に教職を辞し、27歳で浅野撚糸に入社。
「斜陽産業の町工場とはいえ、父が必死で成長させてきた会社。特に、1976(昭和51)年の長良川水害の時、撚糸機も在庫の糸も全部泥に浸かって億単位の被害を受けながら、『会社は潰れるかもしれないけれど、家族は元気だから大丈夫だ』とファイティングポーズを取り続けた父の姿が、自分の脳裏に焼き付いていました。私にとって体育教師は長年の夢でしたが、父を支えて会社を守るため、『浅野撚糸を継ぐ』というもう一つの夢を叶えようと決意しました」
岐阜県安八町の浅野撚糸本社工場。糸と糸を撚り合わせる撚糸機が24時間稼働している。
やるからには日本一の町工場を目指そう。そう意気込んだ浅野は、現場で3年ほど修業を積んだのち、90年代に入ると新たな取引先の開拓に挑む。地元の紡績会社のみならず、東レや東洋紡といった大手の紡績会社や丸紅、伊藤忠などの商社の門を叩くと、協力工場を20社あまりも持つ浅野撚糸の高い技術力、そして浅野の熱意を買った企業から仕事が入ってくるようになる。
「91年にはバブルが崩壊して日本経済の長期低迷期、いわゆる“失われた30年”が始まって、『もう日本で糸を作る時代じゃなくなる』という人もいました。幸いなことにうちは一流企業さんや商社さんからの取り引きができるようにはなりましたが、決して安心できる状況ではありませんでしたね」
1995(平成7)年に35歳で二代目社長となった浅野は、思い切って世界初の複合撚糸機を導入。通常は綿と綿、ウールとウールなど同素材を組み合わせて糸を撚るところ、さまざまな異素材を組み合わせて撚ることが可能になる新開発の撚糸機だ。これまでにない糸の開発こそ成長のカギだと考えていた浅野は、この機械で綿糸とゴムを組み合わせた撚糸の開発に挑戦する。こうして生まれたのが、90年代後半に日本で大ヒットするストレッチ生地だ。
「大手のアパレルメーカーがこぞってストレッチデニムを売り出し、作っても作っても糸が足りない状態でした。取引先も、どんどん発注するから機械を増やしてでも対応してほしい、と。協力工場さんも、『それならうちもその機械を入れたい』と銀行から融資を受けて複合撚糸機を導入してくれたんです」 生産体制を強化した浅野撚糸の業績は飛躍的に向上。1999年には過去最高となる年商7億を達成する。
しかし、活況は長く続かなかった。
「この年がピークでした。2000年代に入ると中国に日本の紡績技術が流出し、安価な複合撚糸が日本市場を席捲するようになるんです。見る見るうちに商社からの発注が途絶え、年商は激減しました」
本社に隣接する、浅野の父が大切にした自宅。現在はカフェや休憩スペースとして活用。
「どんどん発注するから機械を入れろ」という言葉を頼りに借り入れまでして設備を整えても、潮目が変われば瞬く間に受注が途絶える。下請け企業の典型的な栄枯盛衰。「この不景気は単なる不景気じゃない。構造的な問題だ」と父は言った。2003年には浅野撚糸を長年支えてくれた工場長を含む21人もの大幅なリストラを余儀なくされ、共に歩んできた協力工場との契約も見直さざるを得なくなった。
しかし、浅野撚糸からの発注を信じ、借り入れまでして機械を導入した協力工場は、何社も債務超過に陥っている。「何でもいいから仕事をくれ」「金利だけでも融通してくれないか」。そう詰め寄る人たちと顔を合わせられず、日中は逃げ出すように大阪まで営業に行き、夜間にこっそり工場で新たな糸を開発する日々。
「父は『廃業しろ』と言いました。お前は決して協力工場を騙したわけじゃない。商売にはそういう厳しさもある、と。けれど、私にはどうしてもそう思えなかった。協力工場さんは浅野撚糸の仕事があると思うから借り入れしてまで設備投資をしたわけで、やはりその責任は取らなければならない。だから、全ての協力工場さんの返済が終わるまで浅野撚糸を続けたいと、父に告げました」
自己破産するまで頑張り続けなければ誰も納得してくれない。そこまでやらせてくれと必死に語る息子に、やがて父はうなづき、こう言った。家族が住む家は必ず残せ。そして、どうしても続けるというなら、大義を持ち、それを紙に書いて貼っておけ。
「私の大義は二つでした。協力会社さんの借金を全て返すこと。そして、言葉だけを信じて受注し、言葉もなく簡単に切り捨てられる日本の下請け体制を絶対に変えること。自分のことばかり考えてきた私が、初めて抱いた利他の心です。その大義のために、新しい糸を開発し、ナンバーワンではなくオンリーワンの町工場を目指そうと決意しました。独自の技術を持たなければ下請けの構造からは脱却できないと考えたからです」
浅野雅己 あさの・まさみ
1960年生まれ、岐阜県安八郡安八町出身。福島大学教育学部卒。小・中学校体育教員の職を経て、1987年、浅野撚糸株式会社に入社。1995年、35歳で父の跡を継ぎ代表取締役に就任。2023年、福島県双葉町に撚糸工場「フタバスーパーゼロミル」を開設。
東奔西走する浅野の日々が始まった。ゴムを撚り、紙を撚り、あらゆる素材を試しては糸を作り、営業に駆け回る。2004年、ある日大阪へ出張した浅野は、街中でかつて取引のあったクラレ(現クラレトレーディング)の看板を見かけ、思わず担当者に電話を入れる。
「その時は久しぶりにご挨拶をして近況報告をした程度だったのですが、数日後、突然糸が送られてきて、『水に溶ける糸があるんだけど、使い道が見つからなくてお蔵入りしそうだ。何かできないか』と。これは大きなチャンスだ、とピンと来ました」
さっそく開発に取り掛かり、試行錯誤の末に生み出したのが「スーパーゼロ」だ。紡績糸とクラレの水溶性糸を独自の工程で撚り合わせたのち、スチームで水溶性糸を溶かす。糸が元の撚りの状態に戻ろうとする反動で多量の隙間を生じさせ、糸を膨らませる。この世界に類を見ない特殊な撚糸工法により、優れた吸水性や通気性、さらに柔軟性や軽量性まで実現させたのだ。
一方、開発に明け暮れていた2005年には、浅野撚糸同様経営の危機に直面している三重県の老舗タオルメーカー、おぼろタオルを銀行から紹介される。意気投合した両社は、開発中の糸を使った新しいタオルを作ろうと協業を開始。
「やわらかくて吸水力が高く、毛羽落ちが少ないタオル」を開発目標に実験を繰り返す。2年をかけ、4,000枚もの試作を経て誕生したのは、ふっくらとボリュームがあってやわらかく、吸水力は一般的なタオルの1.5倍、しかも毛羽落ちが少ないという、まさに理想のタオルだった。
「まず最初に、おぼろタオルさんの取引先だったベビー子ども服ブランドのファミリアさんで採用が決まりました。よし、これなら売れると勢いづき、サンプルを持ってありとあらゆる問屋を回ったのですが、どこも扱ってくれないんです。1枚1,000円という価格が高すぎると言うんですよ。ある問屋さんは『この風合いはいいねぇ、1,000円か、よし、3万円ぶん買うよ』って乗り気になってくれたんですけど、1ダース1,000円だと思っていて、単位が違う。『いや、1枚1,000円なんです』って言ったら、『えぇっ、そんなもん絶対売れんぞ』って」
日本一の町工場を目指し、新技術の開発に全力をかけて早3年。起死回生をかけたタオルを扱う問屋は、どこにもなかった。
浅野撚糸の波瀾万丈な物語を展示する本社ギャラリー。
2007年、浅野撚糸の売り上げは2億にまで落ち込んだ。「いよいよ倒産らしいぞ」。近所に広がる噂をたびたび耳にするうち、父はノイローゼ気味になり、浅野や浅野の妻、真美に辛く当たるようになっていた。
浅野の妻は高校時代の同級生で、浅野撚糸の経理担当として勤務していた“先輩”でもある。気丈な女性で自社が苦境に瀕しても明るく振る舞っていたが、同居する舅が浴びせる厳しい言葉に神経をすり減らし、毎晩布団でこっそり泣いているのが浅野にも分かった。
「たまには気晴らしをさせようと、東京での営業に妻を連れ出しました。でも、実は私自身、もう自己破産しかないと思い詰めていて、東京でそれを妻に話そうと思っていたんです」
足を棒にした営業のあと、疲れ切った二人は「たまには寿司でもを食べよう」と築地へ向かった。むろん高級な店には入れず、表に値段を貼り出してある手頃な店だ。
「妻が喜んで、あれ食べたい、次はこれとパクパク寿司を食べるんですよ。おなかいっぱいになって、さぁいよいよ自己破産の話をしようかと思った時、妻が笑って言ったんです。『お父さん、このお寿司おいしいね。いつか社員や協力工場さんにも食べさせようよ。だから、絶対あきらめちゃだめだよ』と。その瞬間、自社ブランドを立ち上げて自分たちでこのタオルを販売するという考えが、天啓のように降りてきました」
その妻の笑顔が、ファクトリーブランド「エアーかおる」のロゴマークだ。「東京から帰ってすぐに描きました」。「エアーかおる」というブランド名はすぐに決まった。「エアー」はもちろん空気。クラレの頭文字の“K”、浅野撚糸の“A”、おぼろタオルの“O”、そして「生きる」を意味する「Live」の“L”を組み合わせ、「かおる」と読ませた。そこには3社の感性が生きるという思いを込められているという。
こうして誕生した自社ブランド「エアーかおる」だが、もちろんすぐに販路が開けたわけではない。浅野たちは量販店、スポーツ店、雑貨店などあらゆるところへ営業をして回ったが、やっと売れたのは1カ月でたったの100枚。周囲から背中を押されて記者発表会を開いたり、東京で開催される大規模なギフトショーなどに出展したりとできるかぎりの努力をしたが、反応はほとんどなかった。「ものが良いのは分かったけど、タオルは“もらうもの”で、ブランドものでもないタオルなどギフト用にだって買わないよ」。そう言って立ち去る人もいた。
従来のタオルに比べ1.6倍もの吸水力を持つ“魔法のタオル”「エアーかおる」。ロゴには妻の笑顔が。
行き詰まった状況から抜け出すきっかけを作ってくれたのは、やはり妻の真美だった。
「このバスタオル、ものすごく水分を吸ってくれるからサイズを半分にしてくれない? 大きいと家族全員分洗濯するのが大変なのよ」
妻の言葉どおり、タテ半分のサイズにしたタオルを急きょ生産し、次のギフトショーでは他の商品を一切置かず、ハーフサイズのタオルのみを販売した。いちかバチかの賭けだったが、これが大きな的を射る。なんと一度の展示会で10万本の受注を得ることができたのだ。
「おぼろタオルさんに『10万本すぐに作ってくれ』と電話をしたら仰天して『アホか!』と。それでも24時間フル操業で生産してくれて、納品に間に合わせてくれました。そこから、ハーフサイズだけでなく他のタオルも火がついたように売れ始め、テレビ局が取材に来たりテレビ通販番組からオファーがあったりと、あれよあれよという間に状況が大逆転しました」
テレビ通販番組では1時間で7,000万円、8,000万円と売り上げを伸ばし、「スーパーかおる」は大ヒット商品に。さまざまなシリーズも展開し、今や累計販売数は1,900万枚を超えている。浅野撚糸の売り上げは2015年に10億を超え、19年には全ての協力工場の借入金が返済完了となったという。浅野の二つの大義は、見事果たされた。
「もともと社長を継いだ時に売り上げを10億にするという目標があったんです。1999年の7億を境に途切れていたその目標、15年あまりかかってようやく達成できた。その時入院していた父のところに決算書を持って行って、『おい、10億を超えたぞ』って言ったら、弱っているのにニヤッと笑って、『おれが言ったのは賃加工の10億だ。お前はものを売って10億だろう?』と。あとはニコニコ、嬉しそうに笑っていました。まったく、褒めるなら素直に褒めろって思いましたよ(笑)」
安八町の本社は直営ショップやアウトレットコーナー、さらにカフェも備える。
こうして奇跡のV字回復を果たした浅野撚糸だが、浅野は2019年、驚くべき発表をする。東日本大震災の被災地である福島県双葉町に新工場を開設するというプロジェクトだ。
きっかけは、経済産業省から『繊維産業と福島県の復興を共に進めてほしい』という要請を受けたことにあった。
「かつては日本の主幹産業だった繊維産業はどんどん斜陽化し、2016年には経産省から『繊維科』が消えました。これではいけないと、全国の繊維企業から選ばれた20社が繊維産業の将来について検討する会合を定期的に開いていて、うちもその中の1社でした。ところが2019年、その会合の最後に経産省のご担当者が立ち上がり、深々と頭を下げて『福島の復興に力を貸してほしい』とおっしゃったんです」
福島には大学時代を過ごした縁もある。担当者の依頼に応えて浅野が福島の被災地12ヶ所の視察に赴くと、原発事故で深刻な被害を受けた双葉町だけが、無人のままで取り残されていた。それでも同伴した町長は、熱く将来のビジョンを語る。町の惨状と人々の思いを全身で受け止め、この町の力になりたいと、浅野は強く思ったという。
実際に工場を新設するとなれば国からの補助金が見込めるが、それでも多額な借り入れが必要になる。さすがに自分一人では心を決めきれず、浅野は病床の父に相談。すでに意識も曖昧な時間が増えていた父だが、その時だけは、俺は賛成だ、とはっきり答えたという。
「お前は商売で成功した。財も多少は蓄えた。唯一ないのは“徳”だ。だから、やるんだったら、借りられるだけ金を借りて思い切りやれ。ただし、もし女房と息子が少しでも反対したら、絶対にやるな」
私財を投げ打ってでも地元安八町に貢献してきた父だからこそ言える言葉だった。浅野はすぐに家族に相談。妻は、「あなたの人生だから、やれとも言わないし止めもしない。あなたが決めなさい」とだけ返し、息子宏介は60歳を迎えようとしている父に、「親父、七十まで生きる自信があるんなら、やろうよ」と明るく言った。
「実は、私は肺がんで肺の一部を切除しているんです。だから、もし再発でもあったら七十まで生きているかどうかは分からない。それを知っていて言うんだから、こいつも粋なこというなぁと(笑)。で、主治医に『息子にこんなこと言われちゃって』と話したら、先生もまた粋でね、『まぁ、再発なんていうのは夢がある人、目標がある人にはそうそう起きないだろうから、浅野さん、やってみたらいいんじゃない?』って。無責任ですよねぇ(笑)」
この年、浅野撚糸は双葉町への進出を決定。浅野はなんと30億もの巨額な投資を行い、2023年に工場と地域交流の場を兼ね備えた「フタバスーパーゼロミル」を開設した。息子宏介と手を携えた、新たな挑戦の始まりだった。
大規模な撚糸工場にタオルショップやカフェを併設する「フタバスーパーゼロミル」。
「フタバスーパーゼロミル」は実にユニークな施設だ。本社工場の3倍という敷戸を持つ工場は20台もの撚糸機を備え、「スーパーゼロ」をはじめとするオリジナル糸を生産。一方、地域の人々の憩いの場となるカフェやショップを構え、工場見学ツアーや時にはコンサートなども開催している。スタッフは周辺の市町村で採用した20代以下の若手がほとんどで、省庁や一流企業、さらには海外からの視察などにも彼らが率先して対応しているという。
「実際のところ、進出計画から今日までの数年間は本当に苦しいことばかりでした。2022年に双葉町の避難指示が一部解除となり、戻ってくる町民の方たちの雇用に役立つことができればと思っていたのですが、実際に戻ってきたのは30人ほどの高齢者だけ。コロナ禍で売り上げは激減し、ウクライナ問題などで工場の建設資材は高騰。借入金は膨らむばかりで夜も眠れず、体重も激減しました」
復興に役立つどころか、またしても倒産の危機に直面。浅野の脳裏には、双葉町へ進出したことへの後悔ばかりがよぎるようになっていた。そんな浅野の耳に、ある日、思いもよらない言葉が届く。
それは、福島県の高校生たちがフタバスーパーゼロミルの見学に訪れ、社員たちと質疑応答を行っていた時のことだった。「社長がいると社員が話しづらいから」といったん場を離れた浅野が頃合いを見て再び部屋の前まで戻ると、ちょうど高校生から最後の質問が投げかけられたところだった。「あなたにとって、復興とは何ですか?」。すると、19歳の女性新入社員が答えた。
「私は福島に生まれ、震災後は岩手で育ちました。でも、福島出身だというだけでいじめられて、なんとか復興に役立ちたいと思っても、小学校に入っても中学生になっても高校生になっても何もできませんでした。ところが、高校3年生の時に浅野撚糸の求人を見て、この会社に入ったらひょっとして復興の役に立てるかもしれないと思いました。私にとって復興とは、私がここにいることです」
廊下でこの答えを聞いた浅野は、ただ涙を流し、自分を恥じたという。
「この子がこう言っているのに、おれは何を後悔などしているんだ、と。そこから改めてスイッチが入り、新しい販路を切り開くために活発に動き始めました。無理をしすぎて緊急入院になったこともあったのですが、結果としては大手の量販会社との契約が成立したり、超無撚糸という新しい糸の開発に成功したりと、業績回復への道が開けましたね」
巨額な負債を背にし、ギリギリまで自分を追い詰めても、決してファイティングポーズを崩さない浅野。そこにあるのは、「東北の復興こそが日本の再生。その起爆剤となるのが双葉の復興だ」という自分自身に課した大義だ。その実現のため、浅野は中小企業庁による「100億宣言」に参加し、売上高100億円企業を目指している。あまりにも波瀾万丈な浅野撚糸のストーリーは、父が撚り合わせた1本の細い糸から始まり、浅野に引き継がれた。その細い撚糸を確たる道へと変え、浅野はさらに未来へと走り続けていくことだろう。
【スタッフクレジット】
text:Yuko Harigae(Giraffe) photo:Takashi Shimizu